やりたいことなんてあってもなくてもどっちでもいい

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「やりたいことをやっていく」という言葉に踊らされて、「やりたいことリスト」を作ってみたりして、「オレもやりたいことやるぞ!」「私もやりたいことやんなきゃ!」となることで、前向きになっていくことは、とてもいいこです。

ただ、「やりたいこと」に対して、「やらなきゃ」「見つけなきゃ」という罠にハマっていませんか?

この記事を訪れたあなたは、もうすでにドツボにハマりかけているかもしれませんね。

「やりたいことをやる」「やりたいことを見つける」というキーワードで検索している時点で、既に迷走中であるのではないでしょうか?

ここでは、そんな自分に気づけている方、気づけていない方のどちらの方へも、心を楽にするための考え方を紹介していきます。

焦っている自分自身を止めてあげて、落ち着かせてあげるためにも、一度立ち止まってみて、ここで一休みしてみるといいでしょう。

「やりたいこと」はあってもなくてもどっちでもいい

まずお伝えしたいことは、「やりたいこと」はあってもなくてもどっちでもいいということです。

周りのみんなが、何かに夢中になっていき、道を見つけ出してどんどん進んで行く中、あなただけが取り残されている感覚になって、「みつけなきゃ」「やらなきゃ」となってしまうと、アレコレと手を出して、結局何がしたいのかさらにわからなくなるオチが待っています。

ただ、これは否定しているわけではないので、あなたもあなたを否定はしないであげて下さい。

その「迷走する」という無駄に思える行動も含めて、「迷走したかった」「色々やってみたかった」ということにして、自分を責めないであげてほしいと思います。

「やりたいこと」はあってもなくてもどっちでもいいと思いますし、迷走してアレコレ中途半端に手を出してはやめていっても、何かを意味もなく無心で続けても、それもどっちでも構わないと思います。

別に面白くもなかった、という答えを得られますし、仮にもし続くような何かを見つけ始めたのなら、それはそれで素晴らしいことです。

また、「何もしていない」自分を責めないであげてほしいとも思います。

人間は、行動によって何かの答えを得るために、とにかく「やってみる」「行動する」ということが昨今では目立ってきているように感じますが、私たちは生きている限り、「何もしない」ということをすることは出来ません。

「何もしていない」と自分では思っていても、そこに存在していますし、息ははしていますし、トイレには行きますし、ごはんは食べますし、服を着替えたり、お風呂に入ったり、布団を整えて眠ったりもします。

生きている限り、「何もしない」ということなんてまずありえないので、「特別な何か」をしていないと「何もしていない」ということになるとは考えない事です。

私は私の道がある。

あなたはあなたの生き方がある。

ただそれだけのことです。

「何かをやってみる」というのは、頑張ってやるものでもないですし、探し出してやっていくものでもないと思います。

勝手にそうなっていくものばかりで、無意識的に動いていくものでしかないので、「やりたいこと探し」も疲れてしまうのであれば、やめてもいいと思います。

もちろん、どうしても何かにチャレンジしたいのであれば、それもひとつの答えですので、やってみるのもいいでしょう。

本当に「やりたいこと」というのは既に終わっている

自分自身の中で、どこかに答えがあると思って探している時には、それは今の自分を誰かと比較してしまっていたり、理想と現実のギャップを感じて心が落ち着いていない状態なのではないでしょうか?

人間は、本当に「やりたいこと」というのは、無意識的に行動し、どんどんやり終えていっています。

それが自分の答えでしかないので、「考えたい」のであればずっと考え続けますし、「動きたい」のであれば、意味などは関係なく動きまわります。

「探したい」という時には、今現在のように、「何か面白いこと」を探し求めて情報を求めて動きます。

そこに、良いも悪いもありませんし、正解も不正解もありません。

ただ、それが自分の今のやりたいことだというだけであって、それらは全て、どんどん終わっていくものばかりです。

例えば、「〇〇に行きたいんだよね~」とつぶやいてみても、そう言っている、考えているだけで体は動きませんよね?

「〇〇が食べたいんだよね~」と言ってみても、体が動いていないのであれば、それはただそう言っているだけです。

少し冷たいように言えば、それら自分自身の行動を客観視してみると、「言っているだけ」でしかなく、仮にもし、自分と自分が対話するとすれば、「行けば?」「食べれば?」と言いたくなることでしょう。

人はみんな、そんなものだということです。

「やりたいこと」というのは、頑張ってやるようなことでもないですし、好きなことは勝手に体が動き始めて、いつまでもずっとやり続けてしまうものです。

それが誰かから見た時には、頑張っているように映ったとしても、自分自身ではただただ楽しいという感覚でしかなく、頑張っている、努力しているという感覚は全くありません。

これが、逆の立場で起こっているだけで、「みんな頑張ってるなあ」「私も何か・・・」と思わなくても、ただそう見えているだけの現象で、比較して焦ることはないのです。

また、同じように、誰かがあなたの行いをそのように見ていることだって考えられます。

だからこそ、「やりたいこと」は別に探さなくてもいいし、今自分が続けていること、やってきたことの中に見出して、それを大切にしていればそれでいいんじゃないかなと思います。

もちろん、アレコレと中途半端に手を出すことも、チャレンジの積み重ねですし、その中から、最初はちょっと苦しくて頑張っていても、やっているうちに楽しくなってくることだってあります。

もちろんそれでもいいので、あまり悩まないことです。

どんな生き方をしたってあなたの自由

辛い所を頑張って乗り越えて、続けているうちに楽しくなってきたという場合でも、後から振り返ってみれば、その辛さに耐えてでも「出来る自分になりたかった」という無意識的な思いが眠っていますので、それはそれで自分の「やりたかったこと」として認めることが出来ますし、自信と誇りとして胸を張れることです。

中途半端でやめてしまって、覚えてもいないようなことは、ただ「やってみたかっただけ」ということで終えたもので、それも「やりたかったこと」として認めることも出来ます。

だからこそ、ここへ訪れて「やりたいこと」を探し続けても、迷走し続けたとしても、それももちろんあなたの中の正解なので、それでいいのです。

ただ、理解しておくべきことは、本当に辛い思いをしてまで、苦しんでまでやる必要はないと思いますし、誰かに言われたから、圧力があるからといって無理をして頑張ったり、我慢をし続ける必要はないかなとは思っています。

人それぞれ、人生に求める意味は違いますし、幸せの尺度や価値観は違っています。

強要することも、強要されることもないので、生きたいように生きて行くことがベストです。

「やりたいこと探し」が始まってしまうということは、誰かと何かを比較しているか、もしくは特にやることが思いつかない、なくなってしまったという状態で、少しおかしな言い方をすれば、「暇すぎる」ということも考えられます。

ただ、この「暇」に対してどんな意味付けをするのかも、もちろんあなた、私が決めること。

毎日やることに追われている人から見れば、何もせずにダラダラ過ごす日々は、最高の贅沢な時間に見えます。

何もしていない自分を嫌にならず、何かで忙しくすることだけを充実を思ってしまうと、せっかくのその幸せな時間も台無しになってしまいます。

「やりたいこと」が「何もしない」だとしても、それでいいってことです。

余裕を持って生きていける

「やりたいこと」が見つからないということに、焦りを感じる必要などありません。

沢山ある「やりたいこと」というものを全てやっていくと、そのうちその「やりたいこと」が減っていきます。

そして、「何もしない」という状態へと必ず入っていくことになります。

そこで、「何かをやっている」ことに価値があり、「何もしていない」ことが無価値であると言うジャッジも必要ないモノだと思います。

先ほども書いたように、実際に「何もしない」でいるということは出来ません。

日常生活の中で、私たちはとても沢山の行動をしていますし、そこに存在して生きているだけで、周囲へも沢山の価値を与えています。

自分自身に、それ以上を求める必要はありませんし、求められる意味もありません。

これがまさに、「生きてるだけでまるもうけ」という状態です。

私たちは、何にもしてないようなただの生活を送っていたとしても、色んな人と話しますし、それなりの活動はします。

そして、消費行動も少しは発生しますし、何かしらの行動を続けます。

それだけで、社会の一員としての価値は十分に与えていて、誰も「特別な価値」というものは求めていなかったりするものです。

そのように解釈していくと、現代では「特別な何か」に価値があるように見えて錯覚し、誰もがその「何者か」になろうとして試行錯誤しますが、その「特別な何か」を目指す人たちがマジョリティとなることによって、「特別な何かを目指さない人」が、唯一無二の「私」、「特別な存在」となっていく方法なのかもしれません。

そのように考えれば、毎日を余裕を持って生きれるような気がしてきませんか?

「やりたいこと」なんて、あってもなくてもいいですし、探しても探さなくてもどっちでもいいと思います。

「どうせ暇だからやっとくか」くらいで、何の問題もありませんし、そのほうが余裕を持ってなんでもこなせるというものです。

頑張って生きなくていい

頑張ることだけを素晴らしいこととしてしまうことによって、私たち日本人は互いに苦しい社会を作ってしまいました。

そりゃもちろん、モチベーションが高く、心も体も元気で、情熱に溢れてやりたいことへと向かっている時には、どんどんやれますし、多少の疲れも喜びに感じられるものです。

ただ、疲れ切ってしまうまで耐え続け、誰かに強要されたことばかりを頑張り続けても、ずっと走り続けられるわけなんてありません。

次にまた、エネルギッシュにパワフルに取り組むためにも、あんまり頑張らないほうがいいんです。

少しでも弱音を吐くと、「そんなこと言わず、もっと頑張れ」といった言葉は、まだまだ飛び交っていますが、そんなものはどうせ長くは続かないんだから、疲れたらさっさと休んでしまったほうがいいに決まっています。

生きるのに、なんで頑張って生きなきゃいけないんでしょうかね?

という言葉にも、必ず「それは怠惰だ」「甘ったれてる」という言葉は必ず飛んできます。

「いいじゃん別に、私の勝手だし」

そりゃそうだ。

「よしやるぞ!」という時もあれば、「今は無理、やらない」という時があるのは当たり前のことなのですから、自分にも他人にも、もっと優しくなって、楽な生き方が出来るといいですね。

頑張って生きる意味なんてないんだから、どうせなら楽しく生きて行きましょう。

最後に

いかがだったでしょうか?

「やりたいこと探し」の罠や、「頑張る中毒」の状態には誰でも陥ることがあります。

だからこそ、それらを責めないであげて、許してあげてほしいんです。

自分がそうなってしまっている時も、身近な誰かがなってしまっている時も、否定はしてあげないでほしいのです。

もちろん、その先にある「涅槃」という答えは決まっているのですが、その答えを先に言葉で伝えて、好きにさせてあげないというのが、最も残酷なことなのですから、許してあげることです。

「人生は修行だ」と認識して、真冬に冷たい滝に打たれて修行をする方もおられます。

「頑張って耐えていけば、その先に何かがあるはずだ」と信じて、滝に打たれ続けます。

その修行から戻り、滝に打たれた感想はひとことだけ。

「あんまり意味がなかった」

「寒いだけだった」

という答えがまっています。

シンプルに考えれば、「そりゃそうだろ」と思うかもしれませんし、「そんなの当たり前だろ、だから最初からやるなよ」と言いたくなりますし、やめさせたくもなります。

しかし、あなたがその答えを知っていたとしても、それを教えたり、止めたりはしないであげてほしいのです。

気づいて欲しいことは、「冷たい滝に打たれれば、何かが見える」と信じて修行へ向かい、「意味がなかった」「寒かった」という答えをきちんと掴みとって返ってきているということです。

つまり、これらを止めてしまうと、いつまでもその答えは「与えられたもの」でしかなく、「自ら掴みとったもの」にはならないということです。

「涅槃」という最終結論は、頑張ってみて、耐えてみて、だらけてみて、逃げてみて、立ち向かってみて、沢山の経験を重ねて自ら感じ取って見出す答えなのですから、否定したり、止めたりはしないほうが答えへ早く辿り着けるのです。

難しいお話に聞こえるかもしれませんが、それもあなたなりの答えをあなた自身で掴み取ることを願っています。

そして、最終的に、人生は頑張るものではなく、楽しむものだというところまで辿り着けたらいいなと思っています。

どうせやるなら、苦しい努力じゃなく、楽しい努力がいいですし、自分の成長を喜びながら進めると、いくつになっても人生を楽しめるんじゃないかなと思っています。

頑張り過ぎず、力を抜いて、適当にゆる~く生きながら、「気づいたやりたいことずっとやってたわ」と今を振り返られる時がくるといいですね。

最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

明日から、今日から、今からより善き人生を築いていきましょう。

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