
何もしていなくても、ただ生きているだけで価値ある存在であるはずが、なぜか頑張ってしまう。
誰にやれと言われたわけでもないのに、それが当たり前として心にしみついているから、気が付けば頑張ってしまいます。
確かに、自分から向上を目指すことは素晴らしいことです。
しかし、いつも頑張ってしまうようなら、本当の自分の姿は見えなくなってしまいます。
それが、孤独を生み出し、人を傷つけ、生辛い社会を創り上げてしまう。
私たちは、なぜこうまでも頑張ってしまうのでしょうか。
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ありもしない恐怖に怯えている
過去の学びから、未来をある程度まで予測し、「しておいたほうがいい」「やっておくべき」と考えられることはいくつかあります。
しかし、過去の経験が増えていき、嫌な出来事を全て回避していこうとすれば、やることは無限大に増えていってしまいます。
それは、その時にたまたまそうであっただけ。
似たようなことは起こっても、全く同じ現象にはならず、同じ結果になるとは限りません。
未来は過去の延長線上にあるものではありませんし、未来も過去も本当は存在しません。
「そうだったから次もそうなる」
「だからやめておくべきだ」
そういったことばかりを考え、ありもしない幻想に怯えて生きていると、最終的には何も出来なくなってしまいます。
頑張ってしまうのは、二度とそういった思いをしたくはないという気持ちからでしょう。
ただ、その時の自分と、今の自分、これからの自分は全て違います。
全て同じ自分でありながらも、状況が全く違うために、どうなるのかなんて誰にもわからないのです。
頑張って、先に準備したところで、何も起こらずに終わったりするものなのです。
いつの間にか比較している
群集心理というものによって、いつの間にか周りの動きに影響されてしまいます。
そんなつもりはなくても、無意識のうちに動いてしまうのが人間というもの。
誰かが率先して頑張り始めると、「私も」「オレも」と続きます。
その中で、それがいいとは思えない状況であっても、それに「合わせなければいけないのか?」という不安が生まれ、つい同じような動きをしてしまうものです。
頑張りたい人は頑張って、力が出ずに休みたい人は休む。
本当はそれでいいはずなのに、つい同じ行動をしなければいけないと感じてしまうから、他人との比較から始まり、頑張るの競争へと変化していってしまうのです。
本当は、やりたい人がやって、やりたくない人はやらなくてもいいのが真実です。
やり続けた先にあるものは?
頑張って、ずっと走り続けることは、とても素晴らしいことです。
しかし、それは一体何のためにやっているのか?ということを見失っては、本末転倒です。
「それが世のため人のため」
そう思っているかもしれませんが、自分の命をすり減らしてまで頑張って、誰が喜ぶのでしょうか?
心も体も疲れ果て、他人へ配慮する心の余裕もなく、いつも頑張るために頑張って、それを頑張るために頑張る。
一体何をやっているのでしょうか?
その先には何があるというのでしょうか?
頑張って、何かを目指していった先には、思い描いた桃源郷があるかもしれません。
しかし、そこに待っているのは「孤独」です。
それでもいいと言うのなら、頑張ることは止める必要はないでしょう。
誰一人欠けることなく幸せに
誰かのために頑張ることは、とても素晴らしく美しい行為です。
しかし、それを強要することはできませんし、頑張ってみても傷つくようであれば、それはやめなければいけません。
誰かのためと言い続けてやっていることが、その誰かを悲しませることなのであれば、それはただ自分のためにやっているだけです。
幸せになるべき存在は、自分だけでは意味がありません。
だからと言って、自分を犠牲にして他人だけを幸せにするのも違う。
この世に生きている人たち全て、誰一人として欠けることなく、悲しい思いをせずに幸せになるべきなのです。
頑張ることは、ただの独りよがり。
苦しさ、辛さをごまかして生きるのはもうやめて、素直にいきればいいのです。
頑張ってしまうことは、悪いことではありません。
ただ、そんな自分も認め、気づいてあげるだけで、心は楽になれるはずです。
頑張ることを否定するわけではなく、頑張ってもいいけと、頑張らなくてもいい。
どちらでもいいので、どちらかが正解という解釈を捨てること。
楽な道、幸せな道を選ぶことで、世界中の人たちは幸せになれるでしょう。