
「葉を見て木を見ず」
「木を見て森を見ず」
また「森を見て葉を見ず」
ただ、見るだけのことであっても、とても難しくなってしまうもの。
どこかに心を置いてしまえば、それに囚われてしまうのが人間というものです。
囚われは、生き辛さとなり、苦しみの根源です。
心の在り方、置き場所を感じてみることで、生きるのはとても楽になれます。
意識していることは囚われている証拠
何かをしようと思って動くと、それは心が囚われて動かされている状態です。
相手に心を置けば、相手に囚われてしまう。
自分に心を置けば、自分に囚われてしまう。
どこか体の一部に意識を向けると、そこに囚われる。
意識は、囚われとなり、それが長く続くと、執着となって反対側は破壊されていきます。
何も意識はしないことが、どこにも心を置かないこと。
それが難しいからこそ、生きることは難しくなり、簡単なことまでも複雑に見えてしまうものなのです。
どこにも心を置かない
どこかに心を置いてしまうことは、意識をすることになり、囚われることになります。
心をどこにも置かなければ、辛さはなくなっていくはずです。
では、一体人は何をどうやって生きれば、楽に幸せになれるのか。
それは、心を置かないのですから、意識をしないということ。
故に、無意識、潜在意識に全て任せて生きるということになるのです。
これが、スピリチュアルの世界で言われている宇宙と大自然の力。
どこにも心を置かなければ、辛さや苦しみなどはなくなります。
無意識の行動に任せる、潜在意識の力に頼って生きることは、何も考えなくていいし、何もしなくてもいいということになるのです。
心を解き放とう
心は置くものではなく、解き放つものです。
どこかに置いてしまえば、そちらへと傾いていき、反対側は乾いていきます。
どこにも置かず、解き放ってみるのです。
そうすれば、どこへ行っても、何をやっても、心はどこにでもあることになります。
頭で考えると難しくなってしまうかもしれませんが、流されて生きること、無意識・潜在意識にお任せすることにしてみれば、勝手にそうなっていきます。
心を解き放つのは、ただ自分の心に従って生きて行くだけなのです。
何かをしようとか、何かになろうとか、それはまだある目的に向かっている途中であって、心が何かに囚われているからでしょう。
それがまだある時には、やれるだけのことをやってみるといいでしょう。
ただ、何度やっても苦しいようなら、それが答えです。
ただ生きていればいい
楽な人生とは、誰とも比較せず、争わず、どこも目指さず、何者にもなろうとはせず、ただ自分であること。
目標なんてなくていいのです。
ただ生きていれば、なるようになっていきます。
「こうなりたい」とか「こうしたい」とか、それは今の自分に不満があり、ありもしない理想を追いかけ、できもしないのに力に傲り、期待ばかりを膨らませているからです。
心を解き放って、何も考えずに生きてみましょう。
他人は関係なく、自分自身がどうなりたいでもなく、どう「在りたい」のかだけです。
「なりたい」も「なりたくない」も意味は同じです。
ただ「在る」だけでいいのですから、心を感じています、流れるように生きてみましょう。