
ステメンズブログのステローです。
今から二年ほど前。
思い切って断捨離を生活に取り入れました。
その理由と効果は自分が思っていた以上のものでした。
断捨離に興味を持つ方は、何かしら人生に迷いが生じていると私は感じます。
それは、自覚はなくても後から必ず気づくことになるでしょう。
実際に私がそうであったし、今思い出せば無意識に出た行動が何かのサインだったのだと思っています。
持っているのも見るのも嫌だった
最初の断捨離のキッカケは、自分の生活の中に他人がいるような感覚だったことです。
長く一緒に生活していた人と別れることになり、共同生活するうえでそれなりに高価な家具や、趣味嗜好品、生活雑貨に至るまで、沢山のもので溢れかえっていました。
その生活が当たり前であったために、それを維持しようと必死になっていた時もありました。
ですが、ある時にふと気づいたのは、自分には必要がなく、維持するのも苦痛でしかないということ。
生活雑貨は掃除道具や調理器具など様々なものがありましたが、それら全てを使いこなすことは自分にはできませんでしたし、はっきりいって掃除や料理なんてめんどくさくてだんだんやらなくなりました。
普通に生活していれば、やはりそうやって答えが出てくるもの。
何をこんなにも必死になっていたんだと思うと、それらの全てが元々いた私でない人間が植え付けていったものだと感じるようになっていきました。
そうなってしまうと、高価な家具でも生活雑貨でも、それら全ての物が他人を映し出す物に見え始め、他人が家の中にいるような感覚になってきたというわけです。
そして、その次の段階では、目に入るのも嫌だし持っていること自体が嫌になっていきました。
とにかく自分の中から記憶は消したいですし、思い出させるものは全て排除しかたったのです。
この時のことを思い出せば、やはり捨てるという行動は過去と決別するということだとわかりました。
頭の中がごちゃごちゃしていた
ある程度の物を捨てて、過去との決別ができてすっきりしたつもりでしたが、今度はそこからは自分との戦いになってきます。
気持ちが楽になって自由に生きているつもりでしたが、まだまだ私が固執して手放せないものはありました。
元々趣味が多く、物は人よりも多めに持っているほうだと自覚はしていましたが、日常生活でできることというのは限られています。
このことに気づかずに、あれこれと手を出しては中途半端にしてほったらかすということの繰り返し。
そうしているうちに家の中は乱雑になり、大事な用事を忘れたり、常にどこかが汚れているために「掃除しなければ!」という心理が働きイライラもする。
それがわかっていても、とにかくやることを自分で増やしてしまうために、どんどんできなくなっていってさらにイライラする。
「忙しいんだ!」
「大変なんだ!」
と本気で思っていました。
今思えば、こういった行動や発言はとても恥ずかしいもの。
他人から見れば
「自分でやってて何怒ってんの?」
といったものです。
これに気づかずに躍起になっていましたが、やはりこれにも気づいたからこそ、さらに断捨離に走りました。
趣味も自分のできる範囲にとどめ、できもしないのに買ったものは誰かにあげるか捨てるかしました。
捨てるまでは、私も「もったいない」とか思っていましたが、やはり思い出せば怖かっただけ。
いざ手放して、捨てたとしても自分自身は何も変わることはなく、何を恐れていたのか不思議なくらい。
はじめから人は一人だし、できることなんて限られているし、ただただ自分を大きく見せようと必死になっていただけなのかもしれません。
心が豊かではなかった
どんどん物への執着を捨てることによって、自分の見えるものの範囲が広がっていきます。
家の中をすっきりとさせ、無駄な行動もしなくなる。
そうしているうちに、また新たな自分が見えてきます。
断捨離の効果というのはここからがとても重要だと今は強く感じます。
物を捨て、行動を捨てた後、見えてくるのは本当の自分自身。
日々の生活の中でも自分は見えてきますが、今度は外の世界に対しての自分の在り方を嫌というほど見せられます。
それは、人間関係。
全てに執着していた頃は確実に見えていなかったものです。
思い出せば、自分のことばかりに必死になって、自分の価値観だけで物事を判断するだけでなく、それを他人に押し付けたりもして。
自分の思い通りにならなければ大きな声を出してみたり、攻撃的になってみたり。
本当に思い出したくはないほどに、他人の前で未熟さを露呈してばかりいました。
これを感じた時、さらにまだ認めるべきもの、捨てるべきものがあることを知りました。
自分がこれまでにしてきたこと。
それは、自分自身に対して、そして、まわりにいる人たちに対して。
自分の部屋の片づけもできず、身の回りの整理もできてもいないのに偉そうにできるように見せていたこと。
生きているのが長くなるといつの間にか見失っていました。
物が増えることで執着が増える。
それは、長く生きているために過去が増えることでも同じ現象が起こるということ。
ため込む物、責める発言、ひけらかす知識、認めてもらうためのアピール。
それらは全て自分を隠して、自分を守り、強く見せるための鎧。
全て愚行に思えてきて、謙虚であること、感謝すること、思いやりを持って行動することの大切さに気づきました。
そして、それは自分の心が豊かでないことの表れで、その原因を作っているのは日々の私自身の行動であると思ったのです。
ここから断捨離すべきことは、物だけでなく、思考、行動にもあると思い、常に自分を見つめなおすことを習慣化しようと意識し始めました。
まとめ
私が断捨離というものを通じて感じたことを書きなぐりましたが、どこまでいっても正解というものはありません。
これらはあくまで私が感じたものでしかないですし、これからも何かを感じていくことになるはずです。
ただ、断捨離というのは正解・不正解、成功・失敗がないのと同時に、終わりもないと思っています。
常に意識し、常にできる時に実践することが断捨離であり、習慣化していくことが大切だと思っています。
そして、断捨離という言葉だけが単独で先走っているようにも思える昨今。
結局は自分自身を見つめる作業であり、人生そのものを変えることができるかどうかという成長の試練でしかないのです。
自分の習慣が変われば人間性が変わり、それが自分の人生を変えます。
運気だとか風水だとかも言われますが、それはひとつの例え。
断捨離を通じて、自分の人生は自分で変えられるのだと気づきます。
そして、誰の人生でも未来は明るく、何もかもを幸せに感じられるようにすることは誰にでもできるはずなのです。
少しでも早く気づいたほうがいいのは間違いありませんが、いつでも今が最も早い時であり、最も若い時です。
人生は有限です。
残りの人生はあとどれくらいなのかなんで誰にもわかりません。
若いとか高齢だとかは関係ありません。
人はいつ死ぬかわかりません。
年齢とこれから生きられる時間に関連性はありません。
自分の人生を変えるために、私はまだまだこれから捨てて、手放して先へと進みます。